1. 鶴舞公園とその周辺
まずは公会堂が建つ鶴舞公園のおはなしから。
鶴舞公園は1909(明治22)年に名古屋市初の公園としてオープン。
平成21年(2009年)には開園100周年を盛大に祝い、国登録記念物(名勝地)にも指定。花見の名所(「日本さくら名所100選」)としてもおなじみですよね。念のため、読み方は「つるま」公園ですのでお間違いのないように。
鶴舞公園のシンボルともいえる噴水塔は、地下鉄工事で一時撤去されていた時期もありましたが、100年以上前の姿(ローマ様式の大理石円柱に石組、マツの木を配すという珍しい和洋折衷式)現在に留めています。
この噴水塔、上から見るとアニメ<ポケットモンスター>に登場するアイテム、モンスターボールにそっくり。そんなこともあってか、数年前、スマホゲーム<ポケモンGO>の「聖地」としてこの噴水塔(と鶴舞公園)が突如大ブレークし、連日深夜まで多くの人が押し寄せました。その噴水塔を中心に、縦横の通路がクロスするのが鶴舞公園の特徴。公会堂は縦通路の上(北側)、公園のデザインの中で重要な位置を占めているのがわかります。
噴水塔から公会堂に向かって進んでいくと、公会堂の正面にまるで門柱のように建つ謎の石碑があります。その由来を調べていたら、公園が国の名勝地に指定された記念碑で、100周年の式典で披露されたものだそうです(写真は100周年事業報告書より)
ところで、鶴舞公園に市立名古屋動物園があったのをご存知でしょうか? 場所は現在の多目的グラウンド(テラスポ鶴舞)の南側でした。この動物園は東山動植物園の前身にあたるもので、1918年(大正7年)に開園して1937年(昭和12年)に東山に移転するまでのおよそ20年間、この地に名古屋市初の動物園があったんですね・・・。
さて、1937年という年は鶴舞公園地域にとって重要な年になりました。動物園が東山に移転したこと以外にも、鶴舞駅が開業したり、名古屋市の昭和区が誕生したのもこの年のことでした。お気付きの方もいらっしゃると思いますが、公会堂が開館したのは1930年(昭和5年)ですので、開館当初は現在のような最寄り駅としての鶴舞駅はまだ存在していなかった、ということになります。
2. 公会堂が建つまでのこと
そもそも名古屋市公会堂はなぜ建てられたのでしょうか?
答えは昭和天皇のご成婚記念事業です。名古屋市では多数の記念事業案の中から候補を4つに絞り込みました。それは大運動場の建設、博物館の設置、育英資金の創設、そして公会堂の建設です。その後、議論を重ねた末、1924年(大正13年)1月に公会堂の建設が決定しました。
ちなみに、昭和天皇のご成婚記念事業として建設された公会堂は全国で他にもあり、岩手県公会堂や鹿児島市公会堂(現・中央公民館)もこの頃(共に1927年/昭和2年)に完成しています。
戦前の建築で現在も集会施設として使われている公会堂は、上述の岩手県、鹿児島市の他に群馬会館(1930年/昭和5年)・日比谷公会堂(1929年/昭和4年、休館中)・大阪市中央公会堂(1918年/大正7年)・横浜市開港記念会館(1917年/大正6年)・神戸市立御影公会堂(1933年/昭和8年)・豊橋市公会堂(1931年/昭和6年)など全国に10館程度しか残っていません。さらに古い明治時代の公会堂では函館区公会堂(1910年/明治43年)のような木造建築もわずかに残っています。
日比谷公会堂
ここで、公会堂そのものの歴史を紐解いてみましょう。「公会」という語が初めて使われた明治初期、その意味は国会や議会で、公会堂は議事堂や演説会場を指していました。福沢諭吉が建てた明治會堂(1875年/明治8年)などが代表例です。明治中期以降は、皇族のための迎賓館、また商工業者などの倶楽部の性格を持つ公会堂が建てられました。後者では産業振興のための物産陳列場が併設されることもありました。このかたちでの現存の施設としては岡崎市の旧額田郡公会堂及物産陳列所(1913年/大正2年)があります。
大阪市中央公会堂
その後、大正から昭和初期にかけ、地方自治の場として地域住民の集会施設が求められ、全国各地で多くの公会堂が建設されました。いずれも大集会室(ホール)、小集会室(会議室)、食堂、貴賓室、娯楽室を備え、それ以前の公会堂の成り立ちである会議場・迎賓館・倶楽部の要素を残していることが共通の特徴です。その中でも、日比谷公会堂と名古屋市公会堂は、ホール席数が2,700余と最大規模でした。
旧額田郡公会堂及物産陳列所
ところで、名古屋市公会堂を建設するにあたっては、寄付の力も大きかったことをご存知でしょうか。当時の公会堂は篤志家の寄付で建てられることがあり、例えば日比谷公会堂では安田財閥創始者の安田善次郎、大阪市中央公会堂は北浜の株式仲買人・岩本栄之助、神戸市御影公会堂は白鶴酒造社長の嘉納治兵衛といった全国的にも著名な財界人が寄付をしています。一方、名古屋では昭和恐慌前夜という時期でしたが、地元企業に限らず、子どもたちもお小遣いから寄付するなど多くの市民も関わったのが特徴で、寄付の総件数は2,460件にも上ったそうです。
3. 名古屋市公会堂開館
1930年(昭和5年)9月末、着工から3年半、延べ約17万人の職工を動員し、ついに名古屋市公会堂は完成しました。資金面の問題から途中で工事が中断したこともあったそうですが、その威容に市民は驚嘆し、東洋一の文化と社交の殿堂の誕生に喜びが溢れました。
開館当時の名古屋市公会堂全景
当時販売されていた絵葉書には、どの組み合わせにも必ず名古屋城、熱田神宮そして公会堂の3枚が入っていたそうです。新しい名古屋名所のひとつとして、いかに市民が公会堂を誇りに思っていたかがわかりますね。
10月10日、開館の祝賀式が盛大に開催されました。この祝賀式は中川運河・下水処理場・水道拡張・公会堂の四大事業竣工、更に名古屋市の人口百万人突破を祝うものでした。夜は4階の大食堂で華やかに晩さん会が催され、翌11日も祝賀式は続きました。
ところで人口100万突破は直前の10月1日の国勢調査で確実視されていたのですが、10月21日に発表された集計結果は何と90万7千余人。大幅に下回ったため大騒ぎとなったそうです。ちなみに人口200万人記念事業で昭和47年に建設されたのが市民会館です。
この開館祝賀式は、当時の新聞によると「式後を飾る余興の数々」として観世流能楽<翁>、西川流<勢獅子>と新作<幸市園之賑>、そしてジャズとダンスで盛り上がったとあります。外の鶴舞公園では園遊会も開催され、大変な人出だったようです。 ちなみにジャズとダンスで盛り上げたのは広島の料亭羽田別荘専属の歌劇団。大正時代に宝塚に続いて全国各地に作られた少女歌劇団のひとつで、「ハダカゲキ」と呼ばれ人気を博したそうです。今で言う、ご当地アイドルグループみたいな存在でしょうか。 祝賀式の後、市民見学会が2日間行われました。
その後10月に開催された主な行事を順に追うと、市政報告会/ エフレム・ジンバリスト ヴァイオリン独奏会/ ビクター楽人大演奏会(宮城道雄他)/立憲愛国党発会式/尾上菊五郎大舞踊大会/全市学童音楽会/教育勅語煥発40周年市民記念式、翌11月は<君が代>制定50年記念音楽会/名古屋長唄祭/新築地劇団公演/大能楽会/山田耕筰楽壇生活25年記念演奏会・・・などとなっています。洋楽、邦楽、演劇、舞踊、式典など実に多彩なことがわかります。
開館直後から多くの催しが開催され、新聞の見出しには「半年の収入予算を半月で」稼いだとあります。記事をよく読むと、当時は夜11時まで貸していたため、職員は連日「早朝から夜は12時過ぎまできりきり舞いの忙殺で」と苦労した様子が書かれています。 当時は今では想像できない職種も常駐しており、電話交換手、エレベーターガール、メッセンジャーボーイ(配達・集金などのお使い)、下足人(来館者の履物を預る)などと記録にあります。地下には名古屋ホテル直営の食堂、プレイガイドや売店がありました。
4. 建築としての名古屋市公会堂
開館時の建築上の特徴をご紹介します。まず建物を支える鉄骨。大ホールの真上に4階ホールが載る構造から、大ホール天井裏には巨大な梁が組まれています。現在のボルト締めと違い、現場で熱したリベットを打つ工法で、当時の技術の高さが窺われます。
大ホール天井裏の鉄骨トラス
続いて外壁です。2階以上はスクラッチタイル(櫛で引っ掻いたような表面の細い溝が特徴)貼です。フランク・ロイド・ライトが設計し現在明治村に玄関部分が移設されている旧帝国ホテルで「すだれ煉瓦」の呼び名で使われてから昭和初期に広く普及しました。
公会堂のスクラッチスタイル
次は基礎です。もともと鶴舞公園は今の新堀川の浚渫土砂で埋め立てた田園地帯で、地盤強化が必要でした。そこで直径24㎝の松の丸太を縦横約90㎝間隔で地中に埋め込みました。その数何と3,486本!もちろん、現在でもそのまま地中に埋まっています。
ちなみに関東大震災のすぐ後に着工した日比谷公会堂や、中之島の中州に建てられた大阪市中央公会堂も、地盤強化のために全く同じように松を杭打ちしており、近年の免振工事の際に掘り出した松を展示しています。
もうひとつ、大ホール舞台の特徴もご紹介します。舞台背面は左右と上部が手前に湾曲したクッペルホリゾントと呼ばれる壁になっています。音響反射板の効果と、照明で背景に色を着けた時の美しさが当時から好評でした。 さらに舞台手前の客席最前部は一段掘り下げてありました。そうです、これは当時他のどのホールにも見られなかったオーケストラピット!このため戦前から藤原歌劇団を始め、数多くのオペラが上演されました。様々なジャンルに対応する先進的ホールだったと言えます。
また、大ホールロビーには開演を告げる鐘が残っています。録音ではなく、各階にある鐘が同時に叩かれ、のどかな音色が流れます。
同じ大ホールロビーの保存エレベータの扉の上には、昔ながらの時計の針方式の階数表示があります。改修工事ではこのエレベータも最新式に更新したため、この表示板は地下に新設する展示コーナーに移設されています。
時計の針方式の階数表示
開館当時としては最新だったのが、空調設備です。さすがに冷房はありませんでしたが、暖房と空気清浄機能が備わり、当時の新聞には「これならホールへ3千人入っても5千人入っても息苦しい思いをさせない」などと紹介されています。
開館当時の建築上の特徴で最後にご紹介したいのが、質の良い国内産の石材です。玄関階段の縞模様の大理石(高知県産)、1階ロビーの壁や柱の日華石(にっかせき=石川県小松市産)など、限られた産地でしか採れない貴重な石材が使われています。
5. 開館時の催事内容
戦前の舞台を飾った多種多様なジャンルの中でも注目すべきは、クラシック音楽の演奏会です。それまで名古屋ではコンサートホールがなかったため、御園座や高等女学校の講堂などで演奏されていました。そこに国内有数の本格的ホールが現れたのですから、公会堂に国内外の一流の演奏家が集中したのも当然で、クラシック公演が半数以上を占めた東京・日比谷公会堂でも全く同じ傾向が見られました。
開館当時の公会堂大集会室(大ホール)
戦前の名古屋のクラシック音楽普及に大きな役割を果たしたのが、1926年(大正15年)に設立された名古屋音楽協会です。発会式演奏会の会場は末廣座でした。公会堂では開館直後に当時の世界的ヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリストのリサイタルを開催しています。 その後も毎年4~5回の演奏会を公会堂で行い、ヴァイオリンのヨーゼフ・シゲティ、ヤッシャ・ハイフェッツ、ピアノのレオニード・クロイツァー、声楽の三浦環、藤原義江などを次々と招き、名古屋市民が国内外の一流演奏家と直に触れる機会を作りました。
名古屋音楽協会15周年演奏史より
戦前の名古屋音楽協会の演奏記録には、地元オーケストラの松坂屋洋楽研究会と名古屋交響楽団の名も残っています。実は前者が発展したのが後者で、その起源をたどると1911年(明治44年)のいとう呉服店(松坂屋の前身)少年音楽隊に行き着きます。当時の百貨店が客寄せのために結成した吹奏楽団です。 やがて弦楽器が加わって洋楽研究会となり、さらに名古屋交響楽団に発展、昭和13年には中央交響楽団と改称して東京進出を敢行。その後も幾多の変遷を重ね、現在の東京フィルハーモニー交響楽団に至っています。
同じ戦前の記録には近衛秀麿指揮・新交響楽団の名もあり、こちらは現在のNHK交響楽団の前身です。
公会堂ではいち早く、黎明期の国内オーケストラがその新鮮な音色を響かせていたことになります。
いとう呉服店少年音楽隊発足時のメンバー
東京進出を決めた名古屋交響楽団の送別演奏会の記録
その頃、日本で初めての歌劇団も設立されました。ヨーロッパ帰りの人気テノール歌手、藤原義江が結成した藤原歌劇団です。1934年(昭和9年)6月、日比谷公会堂でプッチーニの<ラ・ボエーム>で旗揚げし、そのわずか3か月後には名古屋交響楽団の演奏により名古屋市公会堂の舞台を飾っています。当時珍しかったオーケストラピットのことは前述しましたが、この舞台で藤原歌劇団は戦後まで何度も公演しています。
ここからは舞踊についてです。
公会堂では開館記念式典にも出演した西川流を始め、花柳流、藤間流など日本舞踊の公演がたびたび行われていました。 一方、西洋舞踊については、20世紀初頭にイサドラ・ダンカンによって始められたモダンダンスに影響を受け、独自の舞踊詩を創作して欧米公演でも経験を積んだ石井獏が、開館半年後の公会堂で上演しています。翌年には義妹の石井小浪の公演もあり、人々に鮮烈な印象を与えました。
名古屋新聞 昭和6年4月7日
一方、洋舞の代表格であるバレエについては、19世紀末にチャイコフスキーの3大バレエが発表され、クラシック・バレエの様式が確立しました。日本で最初に本格的に紹介されたのは1911(大正11)年、アンナ・パヴロワ率いるバレエ団の全国8都市公演でした。 名古屋では映画館の末広座で上演されています。このころ、帝劇や日劇、宝塚では来日教師によりバレエの指導が行われていましたが、日本人によるバレエ団の誕生は昭和10年代からです。公会堂でも本格的なバレエ公演は戦後になって一気に花開くことになります。
戦前の音楽や舞踊公演を振り返ってきましたが、他にも大集会室(大ホール)では多くの催しが行われたことは前述のとおりです。1937年(昭和12年)には初来日中のヘレン・ケラーが名古屋を訪れ公会堂で講演に臨み、大きな話題となりました。 文化行事以外でも様々な組織や団体の総会や全国大会などが開かれ、演説会ではマイクも使わず大音声の熱弁で聴衆を魅了した政治家が多くいました。さらに、オリンピック選手などの壮行会や舞台上でボクシングの試合が行われるなどスポーツ関連行事も多かったようです。
大ホール以外の利用内容は、大食堂として作られた4階ホールでは宴会・パーティが最も多く、次いで各種集会や展覧会などで頻繁に利用されています。日本間で式を挙げ、小食堂で披露宴を行う結婚式での利用も、安価に済ませられることで大変人気があったようです。
ここで、参考までに戦前の利用料金をご紹介しましょう。大集会室(大ホール)を全日(9時~23時)使うと120円~400円、小集会室が10~14円、ピアノ25円、娯楽室の将棋盤50銭などです。ちなみに当時の物価は蕎麦の値段10銭から推測すると、現在の約1,000分の1程度のようです。
6. 戦争の時代
前回まで戦前の公会堂をご紹介してきましたが、その後1937年(昭和12年)に日中戦争が、またその4年後には太平洋戦争が始まり、公会堂での催しも戦時色を強めていきました。
戦局報告会や時局演説会、戦意高揚の映画上映会、軍需工場の従業員と家族の慰安会などが増えていきました。 さらに1941年(昭和16年)8月には名古屋防空隊(後に高射砲隊)司令部が公会堂に置かれ、連隊長室・将校団室・兵室・作戦室などが4階全てを占めました。屋上は戦闘指揮所となり、高射機関砲と機関銃が設置され、また鶴舞公園のグラウンドには高射砲4門が配備されました。
1945年(昭和20年)に入ると本土空襲が激しさを増したため、鶴舞図書館は貴重な蔵書を疎開させることにし、3月17日にその一部一万冊を公会堂の地下食堂に移しました。 そのわずか2日後に名古屋大空襲があり、図書館は焼夷弾の直撃を受け建物の大半と図書の半分を焼失してしまいます。公会堂に預けた貴重図書は無事でした。その後も空襲は激しく続き、ついに5月14日には名古屋城が焼け落ちました。
焦土と化した市内で幸いにも公会堂は被災を免れ、焼け出された多くの住民が避難してきたため、公会堂としての機能は停止しました。
7. 戦後のアメリカ軍による接収期
戦後編です。
たび重なる空襲で焼け野原となった名古屋で、公会堂は奇跡的に被害を免れました。しかし終戦翌月の1945 年(昭和2 0 年)9 月26 日より、進駐軍に接収されることになりました。
アメリカ空軍名古屋基地の司令部が置かれ、また米兵の厚生・娯楽施設として大ホールは主に映画館、4階ホールはバスケットボールなどの室内競技場になりました。
当時の様子を伝える落書きが現在も2 階照明室の壁に残っていますが、これは1953 年(昭和28年)に空軍のパフォーマンス集団<TOPS IN BLUE BLUE>のショーが開催されたと書かれています。
ただし、アメリカ空軍接収中の公会堂は、日本人が全く使えなかったかといえば、実はそうでもありませんでした。
当時名古屋には、空襲で焼失するも1947年(昭和22 年)に再建された御園座以外には、松坂屋ホールや名宝文化劇場など中規模ホールがわずかにあるだけで、大規模公演の場が圧倒的に不足していました。
そんな中、米軍関係者に一定数の席を確保する条件で、1948 年(昭和23年)10月の長門美保歌劇団<蝶々夫人>を皮切りに、オペラやバレエの公演、オーケストラ演奏会などがたびたび開催されるようになりました。
とはいえ、日本人がホールを使えるのは米軍の行事のない金曜日のみ、正面玄関は通行禁止のため建物側面から出入りするなど、不便を強いられていました。それでも、戦後徐々に市民の芸術鑑賞意欲が高まる中で、公会堂の果たした役割は大きなものがありました。
昭和26年頃 東京(旧東宝)交響楽団 指揮は上田仁、ピアノは園田高弘。このほか、東京フィルハーモニー交響楽団、関西交響楽団、地元では(旧)名古屋フィルハーモニー交響楽団、名古屋交響楽団などがたびたび公会堂で演奏しています。
8. 再び文化の殿堂に
1951年(昭和26年)のサンフランシスコ講和条約締結で日本は主権を回復しましたが、その後も全国の接収施設の返還はなかなか進みませんでした。公会堂も強制接収から米軍による賃貸契約に変わりましたが、日本人が使えない実態は変わりませんでした。
戦後10 年が経つのにいまだ返還の気配がなく、しびれを切らした市内の文化関係者は、1955年(昭和30)年8月に公会堂返還期成同盟を結成しました。音楽、演劇、舞踊の実演団体や鑑賞団体、また新聞社、放送局など40 団体が参加し、嘆願書を各方面に送りました。
返還時の看板架け替えの様子
その結果ようやく返還が決定し、1956年(昭和31年)2月15日、米空軍司令官から名古屋市に引渡書と鍵が渡されました。戦争末期の本土爆撃による利用停止とその後10 年半の接収を経て、公会堂は芸術文化を渇望する市民とともに戦後のあゆみを踏み出したのです。
戦後になるとバレエは市民の間に急速に普及しました。昭和26年の新聞にはバレエ教室が全国各地に続々と誕生していると報じています。名古屋はバレエが盛んですが、現在あるバレエ団の前身となる研究所やスタジオがこの頃に生まれました。
舞台での上演も増え、公会堂では接収中の1950年(昭和25年)前後から谷桃子、貝谷八百子など東京のバレエ団がたびたび公演し、また海外からもアメリカのスラヴェンスカ-フランクリン・バレエ団などが訪れています。
地元勢としては1948年(昭和23年)に名古屋バレエクラブが、翌年には中京バレエ研究所が公会堂で発表会を開催、その後継である越智實バレエ団もたびたび公会堂で公演しています。1955年(昭和30年)には中京芸術洋舞合同公演が行われ、戦前からのモダンダンス系と戦後のバレエの舞踊家が初めて一堂に会しました。
バレエの話に続いては、海外オーケストラの公演についてです。戦前はまだフルオーケストラの来日公演はありませんでした(唯一、日比谷公会堂で1933 年(昭和88)年にレニングラード交響楽団の記録があります)。
戦後になると1955 年(昭和3030)年シンフォニー・オブ・ジ・エア(旧NBC 交響楽団)を皮切りに、56年ウィーン・フィルとロサンゼルス・フィル、57 年ベルリン・フィル(指揮:カラヤン)、58年レニングラード・フィル、59 年チェコ・フィル、60年ボストン響、61年ニューヨーク・フィル(指揮:バーンスタイン)、62年アムステルダム・コンセルトヘボウ管など世界の名だたる楽団が続々と初来日し、名古屋では公会堂で演奏しています。
なお、59年11月のウィーン・フィル2回目の公演(指揮はカラヤン)は伊勢湾台風の直後だったためチャリティー公演として被災者に義援金を贈ったそうです。
このように昭和30 年代は市内唯一の大規模ホールである公会堂に公演が集中しましたが、すぐ横を通る中央本線の、当時は蒸気機関車の汽笛が演奏中に聞こえてしまうなど、苦労も多かったようです。
また、この時期には海外演奏家も数多く公会堂に来演しており、バイオリンのヨセフ・シゲティ、アイザック・スターン、ヤッシャ・ハイフェッツなどを始め、ピアニストや声楽家らが演奏しています。とりわけ1956年(昭和31年)来日のウィーン少年合唱団は、折からの国内合唱ブームを背景に大きな反響を呼びました。
一方、国内演奏家に目を向けると、この時期国内オーケストラの活動も活発になり、N 響・日本フィル・東京フィル・東京交響楽団・関西交響楽団などが次々と来名、地元では名古屋フィルハーモニー交響楽団(現在の名フィルとは別組織)が1949年(昭和24年)に公会堂で第1回定期演奏会を開いています。
クラシック以外のジャズ、ラテン、シャンソン等やオペラ、演劇などの公演も増えていきました。
これらの多くは、昭和20年代は名古屋市音楽協会、30年代に入ると放送局や新聞社、名古屋勤労者音楽協議会(労音)が主催し、市民の旺盛な鑑賞意欲を満たしました。
(旧)名古屋フィルハーモニー交響楽団
指揮:マンフレット・グルリット
9. 時代と共に新たなジャンルへ
昭和20年代後半から特に30 年代は、クラシック音楽公演の会場としての公会堂は 黄金期 を迎えたといえます。
その後、1958年(昭和33年)に愛知文化講堂(現在のオアシス21の場所)が、1972年(昭和47年)には名古屋市民会館(現日本特殊陶業市民会館)が、1992年(平成4年)には愛知県芸術劇場がオープンしました。
オーケストラやオペラの公演はこれらのホールに移っていったため、クラシックホールとしての公会堂の役割は戦前からの大きな足跡を残しつつも徐々に小さくなりました。
クラシック以外でも、返還後から昭和40年代半ばまでは、歌謡ショーを始めグループサウンズやその後のフォークソングのブームで音楽公演が公会堂でも多く行われましたが、その後中日劇場(1966年 昭和41年開館)、愛知県勤労会館(1970年 昭和45年開館)、愛知厚生年金会館(1980年 昭和55年開館)などに移っていきました。
愛知県文化会館 ①美術館②講堂③図書館
名古屋市民会館大ホール
昭和40 年代半ばから海外のポップス歌手やロックバンドが来日するようになり、名古屋では公会堂で数多くのコンサートが行われました。当時、新しくできたホールがロックコンサートを受け入れなかった、という事情があったようです(一説によると市民会館で椅子の上に立ったお客さんが椅子を壊したことが理由だとか…)。また公会堂は残響時間が短く、大音量のコンサートと相性が良かったようです。
当時から現在まで、海外メジャーバンドの公演を数多く主催してきたCBCテレビの記録を見ると、東京では武道館を満員にするような有名バンドが次々と公会堂に来ています。
現在までの出演アーティストは、数が多すぎてとてもここには全てを書き切れません。主なアーティストだけでも、リストのとおりの豪華な顔ぶれです。そこで公会堂はいつしか、洋楽の聖地やロックの殿堂と呼ばれるようになったのです。
また、改修工事前に公演時のポスターやプログラムを使い、特別展<名古屋市公会堂とロックコンサートの半世紀>を実施しましたが、これは大きな反響をいただきました。
その後現在に至る公会堂利用の大きな特徴としてサブカルチャーと公会堂についてもご紹介しておきます。
サブカル系の大規模イベントとしては通称「コミケ」で親しまれている同人誌即売会「コミックマーケット」が有名です。コミケの第1 回が開催されたのは1975年(昭和50年)。実は名古屋でもそのわずか2年後に「コミックカーニバル」の名で同種のイベントがスタートしています。この「コミカ」は2回目以降、たびたび公会堂4 階ホールで開催されました。当時から一部のファンはキャラクターの衣装で来場しており、後のコスプレに繋がります。
時は移り2008年(平成20年)前後から公会堂と鶴舞公園はコスプレの聖地と呼ばれ始めました。最盛期には年間のコスプレ利用日数が全体の何と38%を占め、毎週末コスプレイヤーが全国から集結しました。
1970年代に芽を吹いた名古屋のサブカルが、40 年後に大きく花開いた訳です。
利用ジャンルの推移
おわりに
公会堂のあゆみをご紹介してきましたが、1930年(昭和5年)の開館以来、公会堂が名古屋市を中心としたこの地域の文化振興において大きな役割を果たしてきたことをお分かりいただけたのではないかと思います。
また、開館90周年の年にあたる2020年(令和2年)には公会堂の建物が国登録有形文化財として登録されました。
名古屋の貴重な文化遺産でありつつ、今なお現役の施設であり「文化を通じて人々が集う場」として存在する名古屋市公会堂では、これからもみなさまのご来場・ご来館を心よりお待ちしております。